リモコンを探した夜のこと

 2018年、3月のはじめ。


 ライブ遠征帰りの深夜、身体の疲労を考えればすぐにでも就寝するべきところ、床に這いつくばってベッドの下を覗き込んでいた。リモコンは、いねが。今思えば明らかに、ライブの興奮で冷静さを欠いている。

 結論から言えば、この日リモコンは見つからない。しばらくしてどこからともなく現れ、2年後もこの部屋にある。そうと知らぬ私は、その夜、とにかく這いつくばっていた。


 それ相応の理由はあった。テレビ*1のリモコンを見失って1週間。本体に電源ボタンはあってもチャンネルが変えられない。当面の録画予約が済ませてあったのは不幸中の幸いとしても、自担にいつ何時仕事の報があり、その必要に迫られるかわからない。「REC or Die.」はアイドルおたくの合言葉。


 正直なところ、探せる場所はすでに探し尽くしていた。渦中の「チャンネルを変えられないテレビ」から聞こえていた賑やかな声はいつのまにか止み、静かに次の番組が始まろうとしていた。


 顔を上げたのは、既視感があったからだ。映像の雰囲気で映画であることはすぐにわかったけれど、見覚えはない。なんだろう。既視感の正体と向き合うべく、しばらく画面を眺めているとタイトルが表示された。『ボーイズ・ドント・クライ』。その時点でリモコンを探すのをやめた。

 

 とうとう、出会ってしまった。


 20年前、海外旅行で驚いたことのひとつといえばCDの安さだ。冷静に考えればCDだけでなく物価そのものが低かったのではないかとも思う。ただ、当時の私にとって、CDというのは「手が届かないわけじゃないけど気軽に買えるほど安くもない」ちょっと贅沢な趣味だった。


 その頃はあまりテレビを見なかったから、新しい音楽との出会いの場は、ラジオと、中古書店の棚と、レンタル落ちのワゴンの中にあった。ラジオで旬の音楽を聞き、中古CDをジャケ買いして、好きなアーティストが見つかると新譜を買う。それがお小遣いの範囲で身につけた音楽との付き合い方だった。


 中古のワゴンセールみたいな値段で新譜を買える、それだけのことが異国を証明するような気がして、旅行中の自分のお小遣いのほとんどをCDにあてた。今思うと親はどう思ったのか。幸いなことに、小言を言われた記憶はない。


 買ったのは、好きなバンドの新曲、ヒットソングメドレー、よくわからないけど目立つところに置いてあるやつを何枚か。その「よくわからない」うちの1枚が、映画『ボーイズ・ドント・クライ』のサウンドトラックだった。

 


 まっすぐ伸びる道を背に“少年”がひとり立っている。目元から上は写っておらず、顔はわからない。黄昏を思わせる色彩と、彼方へ続く道。ロードムービーあるいは冒険譚、その果てに待つ成長。頭の片隅を『スタンド・バイ・ミー』がかすめたような気もする。「少年は泣かない」そんなタイトルの映画に底抜けの明るさは期待せずとも、思い描いたのはたぶん"青春”だった。


 結果から言うと期待は外れた。再生したCDから聴こえてきたのは、私の想像した青春ではなかった。それは「誰か」の青春であり、その誰かはいまの自分よりもう少し年上だろうと感じた。そしてなぜか(思い返してもうまく説明できない)この作品は思っていた以上にシリアスな物語なのだと、一瞬で信じてしまった。CDを再生したのはそれきりだった気がする。2、3回は聴いたかな。覚えていない。


 ただ、CDは何年も本棚に残っていた。海外旅行の思い出と、衝動に従ったあの日を間違いにしてしまうような後ろめたさ。いつかわかる日が来ると、根拠もなく漠然と思っていた。


 シリアスな作品には必ず「好き」や「嫌い」以上の意味や価値があることを、まだ心のどこかで信仰していた。


 その数年で、映画について得たのは「実話」を下敷きにした「性同一性障害が題材」の話であるという情報くらいだ。それが鑑賞の理由になる場合と、逆の場合と。後者だったんだろうなあ。私には、これがただの青春の物語ではないと〈わかって〉しまっていたから。自分で体験していない作品を評する行為を罪だと感じながら、それでも観ようとしなかった。要するに、臆病だった。18年後、不意に訪れた偶然がなければ、たぶんずっと。


 あの夜、もしリモコンを無くさなければ、とうに映画を観ていれば、CDを買わなければ……そうでなければ、映画のタイトルを見た瞬間に「とうとう」なんて他人事じみた諦念を抱くことはなかったんだろう。自分で張った伏線を回収するみたいだ、そう思った自分に気づいた時、私は観念した。


 映画は最後まで観た。終わる頃には、朝が近づいていた。くわしい感想は、ここには書かない。あの日「知り合った」顔のない少年の表情を、今ははっきりと思い出すことができるよ。少女だった頃の自分にそれだけを伝えるために、この日記をしたためておく。

*1:正確にはHDDレコーダー