『堂本兄弟』#韓国旅行
とん、とん、と肩がぶつかるのをじっと見ていた。
録画の編集をしながら堂本兄弟を見たら、CM明けに一時停止した画面の中でOPのふたりはなぜか重なっていた。そこ、外だよ。広いよ。
辛いものを食べてくしゃみが止まらなくなったつよしを指差して大笑いする光ちゃん(箱根旅のクレープ事件を思い出す。あのときも「一番おいしいとこ」が地面に投げ出されたかわいそうなつよしのことを、彼は心底愉快そうに大笑いしたのだった)。「大橋……」「巨泉」つよしのボケを素で殺す光ちゃん。「テレビを忘れていた」というひとことがテレビの前のファンをどれほど喜ばせるかなんて知ったこっちゃないのだろう。知る必要もない。そしてボケを殺されたつよしが「隣の人」を連呼するのもファンを喜ばせる。ふたりはファンを喜ばせるのがうまい。ふたりがふたりでいるだけでファンは喜ぶ。
たまにくだらない夢想をする。たとえば彼らが私たちの目に映るときだけはふたりであるのと、私たちの目に映らないときにずっとふたりでいる、どちらかを選べといわれたら私はきっとずいぶん悩む。そしてたぶん、より時間の長い方を選んでしまう。自分の目にうつる時間だけふたりでいるくらいなら、いっそ見られなくたっていいから、それよりずっと長い時間を共有していてほしいとか、でもやっぱり「ふたりのふたり」を見たいよなあとか、自分でもよくわからない夢想。
隣同士で笑いあう、カメラの外を思わせる会話に微笑ましく思う、そうして楽しそうなふたりの肩や背中がとうとう番組の間中絶え間なくぶつかり合って、それにはちっとも頓着しないようすを、30分間じんわりするような思いで見ていた。
私は誰かに肩や腕がぶつかったらあやまってしまう。ちょっとした事故だと感じるんだろう。何度もなんどもぶつかり合うふたりの肩や背中を見ながら、あれは一種のコミュニケーションなのではないかと、そんな風に思ったりする。
いつの日か人類が言葉
剛紫 - 歴史
なくした時代が来ても
とん、とん。いいなあ、あのふたり。