当事者のこころ

年度末の忍びよるこの季節にあって、幹事役というものを仰せつかり、物事を仕切るという体験を久々にしている。団体の中心に立って何かを運営する経験自体は初めてではないので、勝手は多少なりとも知っていたはずだけど、いったんその立場から離れてしまうと、実感はすぐに手を離れていってしまうらしい。忘れっぽいだけかもしれない。ともかく幹事という役回りを得ることで、私は忘れかけていたものをぼんやりと思い出しつつある。くじを引いた瞬間には少々へこんだけれど、良いことだったんだろうな。

私にはたまたま幹事という役が割り振られたけれど、同時にもっと長期的で重大な役割を引き受けている人もいる。彼らの奮闘を直接目の当たりにする機会もあるので、それを労り、力になる気持ちは当然あるつもりなのだけれど、真の意味で当事者意識を持って関われているのかと問われると、自信を持ってイエスとは言えない。誰もが最大限の想像力でもって一丸となって動けたら理想的なんだろうけど、明確な「役割」が与えられなければ、具体的なアクションが取れない人というのは多いんじゃないだろうか。大なり小なり当事者にならない限り「当事者意識」なんてものは生まれないのかもしれない。幹事として動くようになって、そういうことを考えたりする。


「相手の立場に立ってものを考える」とは言うけれど、本当の意味でそんな芸当が出来るほど豊かな想像力を持ち合わせた人がどのくらいいるだろうか。少なくとも私には難しい。だから、面倒でも、向いていなくても、いろんなことの当事者になれるチャンスがあるのなら、なっておいた方が良いのだと思う。知らないものを想像するよりは、知っているものを思い出す方がきっとわかりやすいのだから。
もちろんこれはイベントや企画のリーダー・運営者という面から見た話で、何でもかんでも当事者になってみれば良いというものではないけれど、「あくまで自分の立場から可能な想像に過ぎない」と想像力の限界を意識しておく、それでも他人の立場を想像してみる、というのは大事なことではないかな、と思う。